2006年 01月 08日
説明できる力
と指摘される今日この頃です。
ほんとうでしょうか?
ある有名な先生が、「○○である」
というと、
同じようなことを言う人が増えるんだなあ、
と言うことも知り、
だから、多くの人(有名な先生も含めて)が「○○である」
と言っているからといって、
それが正しいとはいえない。
全員が、ちゃんと検証して「○○である」
と言っているというわけではない。
「○○である」ということの難しさ。
それは本当にそう言えるのか。
問い続けたら、なんにも言えなくなってしまいそうです。
でも、自分がなぜその立場をとるのか、
ということは、説明できるようでありたい。
それに反対する人がいてもいいし、そういう人がいて当然だということを知りながら、
なぜ自分はその立場をとるのか、それを主張するのか。
それを、説明できる、ということ。
感情的にではなく。
いろんな人の意見を聞いていて、
それはなんかおかしい、ということは、
最近、少しわかるようになりました。
(食育の関係の本は、感情的なのや曖昧なものが多い気がする)
人々の食事が危機的な状況にある、
というのは、ある意味では
現実に起きているといえるかもしれない。
危機的っていうのは、なにが危機的なのか、
と言うことが大事で。
誇張した、曖昧な表現で済ますのは楽です・・・
誇張した曖昧な表現のほうが、メッセージ性が強いから、
なにかを訴えたいときは有効なのだろうか。
もちろん、それでいいときも、きっとたくさんあるのです。
自分の、論理的思考と説明能力のなさと
その大事さを全然知らなかった、
ということに愕然としているわけです。
大学の研究者の人たちは、なんであんなにも
なんでもかんでも疑うんだろう・・・
と思っていました(すみません)
その、「○○である」はほんとうにそうなのか?
と疑問に思える力が、
すごく大事だということに気が付きました。
そのうえで、自分は「○○である」と言える。
ということのすごさも・・・